彼女の福音
拾陸 ― ボケボケ娘のスパイ大作戦 ―
今、私と渚ちゃんと風子ちゃんは、光坂発の電車に乗っている。何故かというと、原因は私の前に広げてある新聞紙、その左側にある穴から見える人たち。
お姉ちゃん。岡崎君。智代さん。
三日前、私のもとに、匿名投書が来た。何でも、お姉ちゃんと岡崎君たちは、ここから少し離れた町にある水族館に遊びに行くということ。そしてそこに、お姉ちゃんの例の想い人が待っているということを、その手紙は新聞の切り抜きで教えていた。状況が状況だったら、何かの誘拐事件に間違われそうな感じだった。
というわけで私たちは何らかの案を練るため、お姉ちゃんの想い人やらをこの目で見定めるため、こうして気づかれないところから生暖かく見守っているわけだ。
しかし……
「渚ちゃん、すごいです……さすが演劇部長です」
「ちょっと悠馬君に手伝ってもらいました。えへへ……」
渚ちゃんはジーンズにポロシャツという結構ラフめな恰好で、野球帽を被り髪を後ろにまとめることで、中性的な男の子に見える。
「それって、暗にまな板って呼んでるんでしょうか……」
「イイエ?ソンナコトナイデスヨ渚チャン?」
「ちなみに風子ちゃんには『やっぱりとりあえず付いてしまうものだったんですか!!』とびっくりされちゃいました」
そういう風子ちゃんはもう素晴らしい変装だ。ジーンズの短パンに袖無パーカーを着るだけでなんと!そこらへんでルカちゃん人形で遊んでいそうな小学生に見える。どこをどう見ても、私たちと同じ年齢には見えない。
私?
私はもう鉄壁の変装だ。これを付けていれば、私だと絶対にばれることはないだろう。鏡を見て私も納得したし、それに占いでもこれを付けていれば別人だと思われる、と出た。
「椋ちゃんもすごいです」
「いいえ、こんなの簡単ですよ」
「そうですか?私には鼻眼鏡なんて発想、全然ありませんでしたっ」
すると、それまで岡崎君と楽しそうに話していた智代さんがぴくりと表情を動かした。
「え?どうしたの智代?」
「いや、気のせいかな……古河さんの声が聞こえた気がするんだが?」
「古河の?」
とっさに違う方向を見る渚ちゃんと、新聞で顔を隠す私。で、でも大丈夫。この鼻眼鏡があれば、正体はばれない。
しかしさすが智代さん、耳が鋭い。伊達にお姉ちゃんと一緒に最強最凶コンビを組んでいない。注意しなければいけない。
それにしても
岡崎君、すごく笑うようになった。私と同じクラスだった頃の彼、そう、演劇部の活動を手伝っていたり、勝平さんのために走り回っていた時と比べて、もっと笑うようだ。やっぱり智代さんと一緒だからなんだろうか。
「こんにちはっ!岡崎さん、智代さん、杏さん!」
「芽衣ちゃん、やっほー」
水族館の前で三人を待っていたのは、春原君の妹の芽衣ちゃんだった。それを見て渚ちゃんが小さく「ええっ」と漏らした。
「ま、まさか杏ちゃんの好きな人って、芽衣ちゃんだったんですかっ」
「え?でも男の人でしょ?」
「で、でもっ、椋ちゃんのお話を聞くと、杏ちゃんは一言も男性の方が好きだとは言ってませんっ!あ、あわわ、これは大変です……」
「誰も見てないわね……」
「杏さん、会いたかったです」
「あらあら、可愛いこと言ってくれるじゃない。ふふふ……」
「杏さん……」
「芽衣ちゃん、今夜はちょっといろいろ教えてあげる」
「え?何を?」
「イ・ケ・ナ・イ・遊び」
「……それじゃあ春原君思考ですよ、渚ちゃん」
「はうっ、私アホな子になってしまいます」
触角をへなへなとしなびらせて渚ちゃんが落ち込む。
「もしかすると、やっぱりとりあえずついてしまうんでしょうか?!するとやっぱり杏さんが攻めなんでしょうか?」
「ふぅちゃん、大声出すと聞こえてしまいますっ!」
……疲れる。
「って、みんな中に入っていきます。あれ、他には誰も来ないんですか?」
辺りを見回しても、お姉ちゃんの意中の人は来ない。
「中で待ち合わせなのかもしれませんが……このまま入るとバレてしまうかもしれません」
むぅ、と考え込む渚ちゃんを、不意に風子ちゃんが引っ張った。
「行きましょう。悩んでいる場合じゃないです」
「え?でも……」
「早く。時間は限られてますから!」
そう言いながら私たちの手を引っ張って行く。入場券売り場で、私は変な目で見られたけど、大丈夫。絶対に私が柊椋だということは誰にもわかりはしない。
「ふぅちゃん、おじさんが間違えて子供券になっちゃいました……」
「プチ最悪です!風子は『あの子は大人だね』と近所で評判なアダルトビューティーです!!」
風子ちゃんは幼稚園にでも住んでいるんだろうか?これじゃあ渚ちゃんちの汐ちゃんの方が聞き分けがいいような……
行き先が水族館だとわかった時点で、こんな結末は火を見るより明らかだったはずだ。
そう胸の中で自分をなだめつつも、私は脱力感を抑えきれなかった。
「はぁぁぁああああああああああああああああああああ」
風子ちゃんは、「どっきり!ヒトデ展」を前に、トリップを始めてしまった。無論、先ほどの四人とははぐれてしまった。
「ど、どうしましょう?このままじゃふぅちゃんが……」
「え、えと、このままでもいいんじゃないですか?トリップしたからって、体に危害がいくわけでもないし……」
「そうでしょうか……」
「それより、お姉ちゃん達を見つけないと」
「はっ!そうでしたっ!」
私たちは風子ちゃんを見て、頬を突いて気がつかないことを確認すると、その場を後にした。
しばらくすると、耳慣れた風切り音がして
ずばこんっ!!
「誰がなんですって?!」
「ひぃいいいいいいいいいいいいっ!」
この声は……
「春原さん?」
私と渚ちゃんは顔を見合わせた。
「まさか、杏ちゃんの想い人って……」
「まさか……」
それはないだろう、と思った。春原君って、あの春原君ですよね?いつもお姉ちゃんに変なことを言って辞書をぶつけられていた春原君。いつも智代さんに馬鹿なことをやって蹴り飛ばされていた春原君。いつも岡崎君の悪ふざけに巻き込まれて、授業中急に歌いだしたり奇声をあげたりしてた春原君。
まっさかぁ。
「全く……お前にはどうも危険を察知する本能が欠けているようだな」
「ま、春原だしな……」
「しょうがないなぁ、お兄ちゃんは」
他の三人もいるようだ。辺りを見回すと、薄暗い間接照明のもと、エンゼルフィッシュなどの泳ぐ水槽の前で、見慣れた五人がいた。慌てて前にある水槽を眺めているふりをする。
「きゃっ!」
小さな悲鳴を漏らしてしまった。目の前には大きな蛸がにゅろんと泳ぎながら流し目を送っていた。
「む?」
またもや智代さんが怪訝そうな顔をした。とっさに私は顔を新聞紙で隠す。しばらくして、智代さんが「いや、何でもない」と言うのが聞こえたので、私は胸を撫で下ろした。
「ねぇねぇ岡崎さん、智代さん、向こうで確か熱帯魚の展示があるから、そっち行きません?」
「お?そうか、じゃあ行ってみよっか」
「うん、面白そうだな」
そう言うと、岡崎君と智代さん、芽衣ちゃんは、通路の向こうに歩いて行った。私は渚ちゃんにおいでおいでをして囁いた。
「あの、渚ちゃん、いいですか?」
「はい、どうぞ」
「あの三人が、しばらくの間こっちに戻ってこないように仕向けてみてくれませんか?その間、ちょっとあの二人の会話を聞いてみます」
「え?あ、はい。何だか、スパイ映画みたいです」
えへへ、と渚ちゃんは笑うと、水槽を見ながら、お姉ちゃんたちとは顔を合わせずに通路を歩いて行った。
さてと。
これではっきりする。恐らく春原君はお姉ちゃんが照れ隠しに使ったアシか何かで、要するに刺身のツマだ。ガシャポンのカプセル。本命はここで待ち合わせなはず。
その証拠に、さっきからお姉ちゃんはもじもじしている。待ち合わせの時間が近いのだろうか。
「ね、ねぇ陽平」
「ん?何」
「そ、その、ね、どっか行かない?ちょっと座りたいなぁって」
「……そうだね。岡崎たちだって、いろいろ歩き回ってるうちにまた会えるだろうし」
これから待ち合わせのところに向かうわけですねわかります。移動を開始する二人に、私はするすると一定の距離を保ちながらついて行った。やがて明るい広場に出た。標識によると、ここは休憩エリアだそうだ。
「……」
何だか重い沈黙が訪れた。もしかすると、お姉ちゃんはここで春原君に自分に好きな人がいること、そして一応一緒にいてほしいことをお願いするんだろうか。
「あ、あのね」
「ねぇ」
二人同時に口を開き、そして黙り込む。
「お先にどうぞ」
「い、いやいいよ。そっちこそ」
「何よヘタレ」
「いや、ほら紳士だから。レディーファースト」
するとお姉ちゃんは「何よ調子いいんだから」とか言いながら、顔を赤くしてもじもじとした後、うん、と頷いた。
「あの、そのね、ほら、週末のことだけどさ」
「うん」
「やっぱり、迷惑?」
何の話なんだろうか?少し予想外の展開になってきた。週末?迷惑?
「い、いや、迷惑ってわけじゃないし……その、驚いてるだけ」
「あたし、そういうの向いてないのかなぁ……」
「向いてないわけじゃなくて、ほら、何でって思っちゃってさ」
「……いいじゃない。ひ、暇だったから、その、どうせあんたのことだし、自堕落な生活送ってんじゃないかなー、て思っただけよ。そう言うのって、何かほっとけないでしょ」
「ま、否定しないけどさ」
ぽりぽりと春原君はバツが悪そうに頬を掻いた。
「いや、助かってるのはほんとだし、それにまあ、やっぱ友達が来てくれるのって嬉しいし」
「だったらつべこべ言わずにありがたく思いなさい」
「へいへい」
ふぃー、と春原君がため息をついた。
私はというと、新聞紙越しにその会話を聞いて、物凄く、あものすごぉく動揺していた。
これってまさか……え?まさか?
しかし会話の流れからして、これじゃあお姉ちゃんが春原君のところに週末行ってるようだ。そうなると、お姉ちゃんの好きな人ってもしかすると……
「どこ行ってるんだろうね、岡崎達」
話を変えた。
「う、うん。熱帯魚を見に行ってたわよね……あとでまわろっか」
「そだね」
何なのだろうこの良さ気な雰囲気は?これじゃあまるで中学生同士の初デートじゃないか。もしかして、あの三人がいなくなったのは、示し合わせてのことだったんだろうか。
「あ、あの、その、陽平」
顔をすごく赤くして、ちらちらと春原君を見ながら、お姉ちゃんが口を開いた。そして
「……わぁああああああああああああああああ!!」
すごい勢いで、二人のところに渚ちゃんが走ってやってきた。
「ちょっ、な、渚ちゃん!??」
「あんた、何やってんのよここでっ?!」
「きょ、杏ちゃん、あ、あまり、時間がないんで、簡潔に言いますっ!」
必死な顔で渚ちゃんがお姉ちゃんに告げた。
「今、杏ちゃんの好きな人、付き合わない方がいいですっ!椋ちゃんが占ったら、大変な結果になりましたっ!」
「へ?好きな人?」
春原君がぽかんとした顔で言った。
「ばばばばばか言ってんじゃないわよっ!いないわよそんなのっ!」
「そ、そうなんですかっ!それはよかったですっ!とにかく、これで椋ちゃんも一安心ですっ!それじゃあ、ここらへんで」
「ここらへんで?」
「お別れです」
そう言った途端、渚ちゃんが空に浮いた。マジック?
いやいや、ケフィアです。
いや、そんな冗談を言っている暇はなかった。そんな生易しいものじゃなかった。渚ちゃんは浮き上がったのではなくて、持ち上げられたのだ。誰にというと……
「ふふふふふ、やっとまた会えたな、古河さん……」
青い鬼火とともに彼女はやってくる。
鬼火の如く青白い小宇宙を爆発させて、おおぐま座の聖闘士、ここに参上。脇には、なぜか目を回している芽衣ちゃんを抱えている。
「む、すまない、話の途中で割り込んでしまったようだな。気にしないで続けてくれ」
「え、ええ」
「さてと。古河さんと芽衣ちゃん、さっきの話、もう少し詳しく聞かせてもらおうか」
「え、えと、智代さん、これには深いわけが……」
「そ、そうなんですよ、あははは、それこそマリアナ海峡よりも深―い理由が……」
「うむ、じっくり聞かせてもらおう。さあ行こうじゃないか」
そう言うと、渚ちゃんと芽衣ちゃんは智代さんに抱えられながら、どこかに連れて行かれた。深く考えたら負けかな、と思った。
「何だったんだろ、あれ……」
「考えない方がいいわね。久しぶりに智代の本気を見た気がする……」
その時、私はふと気付いた。
「あれ?」
「ん?何よ」
「杏、どうかしたの?」
「どうかしてるのはあんたの頭でしょ」
「それ、めちゃくちゃ失礼ですよね?!」
しばらくして、また春原君が返答に失礼なことを言ったので、お姉ちゃんの日本昔話全集が唸った。合掌。
しかしその質問は私も聞きたかった。
お姉ちゃん、何かいいことあったの?何だかとっても嬉しそうだよ?
「いつまでそれつけてるのよ?」
光坂の駅で降りて解散したあと、お姉ちゃんはおもむろに私に近寄って新聞紙と鼻眼鏡を取り上げた。
「わ!わわわ!」
「何、ばれてないと思ったの?言ったでしょ?あんた達はボケ専用だって」
「……もしかすると、ずっと?」
「ん〜、そうね、ま、どこ行っても新聞で顔を隠した鼻眼鏡がいたら、そりゃ怪しいと思うわよね、普通。ま、さすがに智代は電車の中から誰かの気配を感じてたようだけど」
「……うぐぅ」
「で?今回の黒幕はあんたなんでしょ?」
「え、えとね、お姉ちゃん、あ、あはは、これには深いわけが」
「大方あたしとあたしの相手の将来占ってみたら最悪、って出たんでしょ。だから心配になってついてきたんでしょうけど、渚を助っ人に頼んだのは間違いだったわね。ま、ことみじゃなかっただけでも及第点だろうけど」
全てお見通しだった。さすが双子の姉。
「ありがとね」
「……え?」
不意にお姉ちゃんが笑ったので、私は戸惑ってしまった。
「あんた、いろいろと仕事の方も大変なのに、付き合ってくれてありがと。あんたも渚も、心配してくれちゃって、ま、嬉しかった」
「お姉ちゃん……」
「あーあ、あたしがよりにもよって椋にまで心配される日が来ようとはねぇ。あの、私がおむつ換えてあげなきゃいけなかった椋が」
「え?そ、そんなこともしてくれたの?知らなかった……」
すると急にデコピンを食らった。
「なわけないでしょうが。あたし達双子じゃないの」
「あ、そっか……お姉ちゃん、だましたね?」
「引っかかるあんたが悪いって」
ひとしきり二人で笑う。そして、私は聞いてみた。
「ね、お姉ちゃん」
「何」
「お姉ちゃん、春原君が好きなの?」
言葉を詰まらせる。数秒経過。
「……ほんっと、恋ってわからないものよね」
「……だね。でも占いによると」
「そうね……でもあんたいつも言ってたじゃない」
「え?」
とびっきりの笑顔で、お姉ちゃんは親指をぐっと突き出した。
「悪い結果なんて、本人や周りの努力次第で吹き飛ばせるって」
「……そんなに努力するような相手なの、春原君って?」
「すごく痛いところピンポイントで突いてくるわね……」
「何でまた、春原君なの?」
前にも言ったでしょ、とお姉ちゃんはため息をついて苦笑した。
「それがわかれば苦労しないわよ」
「ね、ねえ君、何年生?もう閉館なんだけど」
「はぁぁぁあああああああああああああ……はっ」
「え、えっと、君?今日はお母さんとお父さんと一緒に来たのかな?保護者の方、どこ?」
「失礼です!風子はもう大人です!あなたには風子のオ・ト・ナな魅力がわかりませんか!?」
「……一部の大人には受けるだろうけどおじさんには興味ないな。で、おうちのかたとかお友達はどこかな?」
「最悪です!あなたは岡崎さん級の最悪さです!あ、そう言えば、岡崎さんたちを追って、風子、渚さんと椋さんと一緒に来たんでした。ここはどこですか?今何時ですか?」
「ここはあじさいウォーターパーク、今は午後五時、閉館時なんだけど……」
「はっ!こうしてはいられません!早く家に帰ってアニメを見なくては!ということで失礼します!」
「……何だったんだろう、あの子は……」